霧の月 3

私、瀬川裕一は退院後も大事をとって暫くは青海中央総合病院に通院していたが看護師の浅田聡子に会うことはなかった。私には三歳違いの妹がいたが父と母は既に亡くなっていた。私はその頃若狭海岸沿いの那覇市営住宅の近くの小さなアパートに一人で住んでいた。若狭海岸に打ち寄せる波が良く聞こえていた。私はその時までに二度結婚していたが、いずれも私の原因で離婚していた。子供は無く父親と呼ばれる事はなかった。私には何の取り得もなくただ毎日を過ごしていたのであった。地方公務員になれたのも皆が不思議がった。ただ面接試験の時に好きな本を聞かれた。私はシュバイツァーの生命の畏敬だと言った。これが効いた。面接官がいたく感動していた。そういう事もあって部署は医療福祉関係に回されていた。職場についてはおいおい書くことにする。 つづく